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自分の周りでは、自分と同じように、自らの理念を仕事を通じて叶えようとしている人が多い。

 

それも、ほとんどが自分と同じような年代の人だ。

 

はた目から見ると、どうやら私はその中でもうまくいっている部類にはなるらしい。

 

当人としては、まったくそういった実感はないのに、だ。

 

 

 

新しい発想というのは、いつの時代も、最初は怪訝な目で見られるものだ。

 

私が気を付けていることは、いきなり奇をてらうのではなく、

 

現状をきちんと踏まえたうえで、ニッチを突きに行くということ。

 

 

 

理念が違っていても、表面的には同じようなことをしている事業者はごまんといる。

 

その中で生き残るには、特色を強烈に打ち出していくことと、

 

また、地方都市にいたっては、地道な営業を重ねることだと思っている。

 

 

 

しかし、「営業」というのも、今と昔では概念が違う。

 

昔のイメージは、人海戦術でアポなし、チラシのポスティング、などがあるが、

 

これだけインターネットが普及して、情報にアクセスしやすくなった世の中だから、

 

無為無策にそんなことをやってしまっては、時間と経費のロスになることは見え見えだ。

 

 

 

だからこそ、直接思いが届けられそうな人に、思いを伝える。

 

それが直接の「見込み客」でないにせよ、「こんな人がいる」ということは、

 

地方都市では良くも悪くも広まりやすいのだ。

 

 

 

が、ここで注意したいのは、この「広まりやすさ」。

 

いくら理念が将来性ある内容であっても、初動を間違うと営業も無駄になりかねない。

 

だからこそ、気を付けたいのは、この人には話しても大丈夫か?ということだ。

 

 

 

これが、夢だけでご飯が食べられないということと、何の関係があるかというと。

 

だいたい、私も含め、同じように過ごしている人にとっては、

 

資金的な後ろ盾というのは、とても脆弱なのである。

 

 

 

退職金だって事業運転の原資だし、貯金だって苦学生時代の傷を引きずっている結果、

 

雀の涙ほどあれば御の字だという状態だ。

 

 

 

では、リスクを取らずにだまって社会の歯車になれば?というのも一理ある。

 

しかし、それで心身を完全に壊してしまったことのある人間にとっては、

 

それは死刑宣告に等しいようなものだ。

 

 

 

そうなってから、自分のすべてを賭けるしかなく、一念発起した人もいれば、

 

そうなる前に、自分の身の処し方として、普通の人から見れば「いばらの道」を

 

あえて最初から選んでいる人もいる。

 

 

 

夢だけでは、ご飯は食べられない。

 

とはいえ、始めた以上は、ご飯が食べられるようになるまで、

 

なんとか食いつないでいかなければならないのも、また一つの事実である。